ドリーム小説
行雲流水
どれほどそこでそうしていたのか。
「帰らなきゃ・・・」
鞄の中から携帯を取り出して時間を確かめる。もうすぐお昼だ。立ち上がり参道を戻ろうとしていると、
まだ日暮れには大分早いというのに、辺りが暗くなってきた。そういえば、
最近ニュースで、今日昼頃に百数年ぶりの金環日食がある、と盛んに言っていたのを思い出す。急速に明るさ
を失っていく空を眺めていると、いよいよその瞬間なのだろうか、一層辺りが暗くなった。危険なので日食を直接目で
見ては行けないと、これまた親切にテレビで言っていたのを思い出したけれど、それよりも折角珍しい金環が見れ
るのだから、一瞬ならばと好奇心が勝って、軽い気持ちで見てしまった。美しい綺麗な光の輪が見えて感動したのも束の間、
すぐにちりちりとした痛みを感じて、ぎゅっと目を瞑ってしまった。ぐらりと失う平衡感覚。やはり
よくなかったんだと残像の残る瞼裏に反省しながら、は再びゆるりと瞼を開いた。
その瞬間、感じた異常なまでの違和感。眩しいのだ。空がもう明るい。どうして?目を閉じていたのはほんの一瞬だったのに。
何か変わったようなそうでないような、奇妙な感覚がの中を駆け巡っていた。違和感の原因を知りたくて辺りを見回してもよくわからない。は目を気にしながらも手を翳し恐る恐るもう一度太陽を見上げた。太陽は遮るものも何もなく、燦々と輝いている。
これは一体どういうことだろう――。自分は白昼夢でも見ているのか。
はのろのろと階段を下り始めた。参道の御神木が細くなっている気がする。その些細な違いに気が付いてから、
何もかもが変わってしまったように感じ始めた。総門まで戻り再び辺りを見回すと、
手水舎や総門は建てたばかりの様な真新しさがあるし、それとは逆に近代的な建物は一切合切消え失せてしまっている。
お守りを売っていた社務所は?
総門の先にあるはずのアスファルトの道は?一体どこへ消えてしまったのか。そして、
そこから見下ろした街並みにははっと息をのんだ。
もはやそれは見知らぬ光景でしかなかった。正面に見える二の鳥居以外、がここへ来た時には確かにあったはずのものがないのだ。ただ遠くに見える山並みだけは変わりがない。神社自体はあるのだし、
場所が変わってしまったという訳ではないようだ。まるでその上にある筈のものが挿げ替えられてしまったような――。
は鳥居横の階段を駆け下り、砂土に変わってしまった下り坂を二の鳥居に向かって歩き出した。開かぬ着物で足をもつれさせながら辿り着いた鳥居に手を付き、乱れる呼吸を落ち着かせようとゴクリと唾を飲み込んで。そんなはずはない、そんなはずはない、と、は譫言のように繰り返す。体中の力が抜けて、ぐたりと鳥居に寄りかかった。そこで鳥居が古ぼけた木の色でなく、
塗りたてのような
鮮やかな赤色に変わっていることに気が付く。違和感を通り越している。こんなのおかしい。とにかくおかしい。
「まるでタイムスリップした、みたいじゃ・・・」
感じていた違和感を言葉にすると、それがとてもしっくりきすぎていて、ぞっと寒気がした。
これはやはり夢に違いないとしばらくそこで立ち尽くしていたが、一向に夢などと覚めはせず。
このままここでこうしていても仕方ない。取りあえずそろりと周りを見渡しながら、土に変わってしまった道を一人とぼとぼと
と、あてもなく歩き始めた。道の途中大きな屋敷らしきものがいくつかあり、中に人の気配を感じはするものの、どんな人間が
出てくるのか、恐ろしくて門を叩く気になど勿論なれず、そのままただ通り過ぎる。それにしてもこの状況は田舎どころの話では
ない。車も走っていない、電柱も電線も一本もない、やはりこれは今の日本じゃありえない。そこに存在するのは、時代劇で見た
ような屋敷や民家、田畑ばかり。
いよいよ先程口にした「タイムスリップ」という言葉が現実味を帯びてきて、は思わずいやいや、と頭を振る。田畑には農作業をしている人がポツリポツリと見え、その仕事ぶりときたら牛に道具
をを引かせていたり、鎌らしきもので何かを刈っていたり、原始的なものばかりで目を見張る。口からはもはや溜息しか出てこな
かった。
そうだ家、自分の家のある場所へ行ってみよう。まだ日も高い。歩いても日暮れ前に辿り着けるのではないか。心のどこかでここに家などある
筈はないと思っていても、確かめずにはいられない。ここが確かに山梨ならば、このまま北に真っ直ぐ向かえば、釜無川にあたる
筈だ。甲斐市の東にある家までの道のりを思い描いて、てくてくと歩いていくと、大きな河川はあったが、見渡しても目の届く範囲に橋はない。
それでも天気が良かったせいか、水はところどころ流れている程度で十分歩いて渡れそうだった。転ばぬようにと慎重に川を渡れば、本来なら
それに沿って国道20号線があるのだが、それと思しき幅広の整備された道を見つけ、記憶の中の景色を頼りに方向を見定め東西を確かめつつ
進みだした。甲府方面へは、取りあえず東に進めばよい。途中から竜地を抜けるために、多分ここだろうと思われる細い山道へ入る。
山を越えて穂坂路を通れば、このまま20号線沿いを行くより、大分近道なはずだ。意外に自分でも冷静に道筋を立て、勢い勇んで進み始めたもの
の、慣れない着物草履姿での山越えに徐々に体力を奪われ、足袋の中で早速豆がつぶれたのかじくじくと痛み出し、徐々に歩みを遅くしていた。
途中何度も携帯で時間を確かめながら進んでいたのだが、運悪く充電を忘れていた携帯はすぐにバッテリー切れを起こして使い物にならなくなっ
てしまった。どちらにせよ、何度確かめても圏外で、電話としては使い物にならない。それでも携帯電話が使えないというのはどうしてこうも人
を不安にさせるのだろう。ようやく甲府盆地が見えた頃にはすっかり日が暮れようとしていた。
おおよそ自宅の建っている筈の場所まで辿り着いたが、やはり田畑が広がるばかりでそこには何も無く、もはやこれが現実なのだとは思い知る。一体どれだけの年月を遡ってしまったのだろうか。
日は西の山際に落ちかけ、間もなく夜がやってくる。途方に暮れるとは正にこのこと。家もお金も食べるものも、何もないのだ。
野宿するにも安全とはいえなさそうだし、どうしたらいいのかさっぱりわからない。そうこう思案しているうちに、野犬の遠吠えまで聞こえてき
て、いよいよ不安は最高潮になった。は辺りを見回して一番近くにあった小さな家屋の前まで行くと、中の気配を伺った。人はいるようだ。格子窓の隙間からうっすら灯りが漏れている。どうしようかとしばらく悶々と悩んでいたが、このまま彷徨い歩くよりはと心細さに負けて、覚悟を決めると思い切って戸を叩いてみた。
「こんな遅ぉに一体誰でぇ?」
中から返事があった。声から察するに年嵩の女性のようだ。
「あの!す、すみません、お金もなく泊まる場所もなくて本当に困っています。一晩泊めていただけないでしょうか」
声を上ずらせながらそう言うと、ガタガタと戸板を挟んだ向こう側で音がして、少しだけ開いた隙間からこちらを覗き込み、の為人を確かめたようで、その後すぐにガラガラと戸が開いた。
「あんれまぁ、若い娘さんが夜遅ぉに。さあさ、はんでへえったへえった」
姿を現したお婆さんのあまりにネイティブな甲州弁に一瞬気押されそうになりながら、あ、ありがとうございますと、どもりながらも礼を言って
中に入る。屋内は小さな明かりのみで薄暗く想像していた通りの古めかしさで、土間奥八畳程の板間にこのお婆さんの連れ合いだろう、
優しそうなお爺さんが座っていた。どうぞと促さるままに土間で草履を脱いで上がりこむと、お爺さんと板間中心にある囲炉を挟んだ向側に
少し緊張しながら正座した。
どこからきたのか?何しに甲斐まで?と色々と聞かれたけれど、本当の事を言えるはずもないので取りあえず遠くからきた、とだけ答える。
「わざわざ遠くから甲斐まで?見たとこいいきもん来とるし、自分みたいなええとこの若い娘さんがお共も連れずに一人旅たぁまた危ねぇことをしたもんずら」
夫と子を亡くしました。仕事もなくお金もありません。それで仕事を探して一人でここまで来ました。簡潔になるべく
嘘が少なくなるように考えながらそう告げると、
「ほうけぇ、そらぁえらいことだったねぇ。戦国の世は終わったっつうになんでまぁそんな悲しいこんがおこるんか・・・」
同情されたのか老夫婦は少し涙ぐみながら、
「儂らも戦で息子を亡くしたで・・気持ちはようわかる。ほうだ、仕事なら府中の城下町に行くいいずらに。あっこは甲斐の中心だけあって栄えとる。何かしら見付かるんじゃないかの」
「そうですか、城下町・・」
状況から自分がタイムスリップしたというのはほぼ間違いないとは考えていた。お爺さんの言う戦国の世が終わったということであれば、今は江戸時代の初め頃なのかもしれない。
「あの、お聞きしたいことが。今の甲斐のご領主様はどなたなんですか?」
「数年前までは将軍様が治めとられたが、今の甲斐のご領主は真田幸村様ずらよ」
「え・・・?」
真田幸村の名はも聞いたことがある。戦国時代の武将のはずだが、信州とかそっちの方で、甲斐の領主だったなど聞いたこともない。
だが問題はそこではなく。前に甲斐を収めていた将軍とはこれ如何に。
「あのっ、将軍様って徳川家康公じゃ・・・」
「徳川? 何を言っちょう、将軍様と言えばこん甲斐武田のご領主だった信玄公のこんずらに。将軍様は流石に知っちょうら?」
「しんげん・・しんげん・・・ん?」
しんげんって武田信玄の信玄ですか?!と思わず叫んでしまった。今の話だと、武田信玄が天下の覇者となったということになる。
いや、戦国時代の甲斐と言えば確かに武田信玄が真っ先に浮かぶのだが、お爺さんの言う通り戦国の世が終わっているのなら信玄はとっくに死んで存在
しないはずで、の知る歴史ではありえないことなのだ。
「お爺さん、こん娘さん、さっきから言っとるこんがちょいとおかしいずらに。家族さ亡くした辛さで、すこぉし頭ァ混乱しとんじゃ・・」
「ほうかもしんねぇなぁ可哀想にのう・・・」
「は、はぁ、そうかもしれません・・・」
何だか変な方向に勘違いされたようだったが、確かに混乱しているし、も己の現状をうまく説明する術がないのでそのままにしておく。話を聞くに甲斐の国、甲府にある躑躅ヶ崎館の主であった武田信玄は、
六年前に豊臣を倒し天下を統一。その後、京の二条城に移り幕府を開いたという。その代りに現在甲斐は、信玄の懐刀とされ、
天下分け目の決戦にて勝利の立役者となり、日の本一の兵と謂わしめた武将、真田幸村が任されされているという。
これは最早、ただタイムスリップしたというだけでは説明がつかない。完全に異世界ではないか。眉根を寄せて考え込んでしまったを見て、お婆さんが声をかける。
「取りあえず今晩は遠慮のう泊まってけしね。ほうずら、自分名前はなんてぇの?」
「あ、すいませんでした名乗りもせずに! 私、、といいます。本当に助かります!」
「さんいうのけぇ。ほうだ、夕飯は食べたけ?残り物の汁くらいしかねぇがよばれんけ?」
「は、はい!」
「ほしたら、ちょっくら待っちょうし」
そこで昼から何も食べていないことに気が付き、急にお腹がぐうと大きく鳴った。おばあさんが笑いながら、囲炉裏にかかった鍋のふたをはずし、
中に残った汁を椀によそってくれた。差し出された木の椀と箸を受け取る。それは野菜くずがほんの少し入っただけの質素なもので、
口にしてみれば薄い塩味がするだけのお世辞にもおいしいとは言えないシロモノだったのだが、見も知らずの女にこんなに親切にしてくれる人
がいるんだ、と感謝の気持ちしか湧いてこなかった。それに現金なもので、腹が満たされれば幾分か落ち着きを取り戻し、そうしてやはりこれは夢ではないのだと実感するのだった。
そろそろ寝るずらに、とお爺さんが言うと、お婆さんがごそごそと蓆を数枚出してきた。囲炉裏を囲んでそれを三方に敷くと、「こんなんですまんねぇ」と申し訳なさそうに言うので、
十分ですとお礼を言って、も二人に倣い、蓆の上に腕を枕に寝転がった。明かりが吹き消され、真っ暗になる。お休みなさいと一言かけ、は寝返りをうち、今日起きた出来事を順を追って回想し始めた。
環を見た後の違和感、あの瞬間にきっと時を超えたのだ。原因など知る由もない。日食との因果関係もには見つけることができない。
明日はどうしようか。もういちど八幡に行ってみようか。もしかして戻れるかもしれない。そこまで考えてふ、と頭が急に冷えてきた。
戻ってどうするのか?あそこにの帰りを待つものはもういない。そうだ、そうだった――。
独りぼっちなのは、あそこでもここでも変わらないではないか。そう考えると、今日の出来事も、家族を亡くした現実と比べたら、大した
出来事では無いように思うのだ。それとも、あまりにも現実味がなさ過ぎて状況が呑みこめていないだけなのか。はたして。
「どこか遠くへいきたい」と何気につぶやいたあの一言が、こんな奇妙な現実となるなど誰が思おう。不安は山ほどあるけれど、
何故か不思議と心に悲壮感はなかった。取りあえず、これからの事はまた明日考えよう。は深呼吸をしてから眠りに落ちるために目を閉じた。
2012.06.25