EverydayILoveYou






ドリーム小説 永い夢


その年の夏、甲斐はここ数年で一番の猛暑となり、熱帯夜が長い間続いた。今年ほど、エアコンが恋しいと思った夏はない。 せめて、扇風機でもあればと思わずにはいられない寝苦しさに、 何度も寝返りをうちながら、目覚めてはまた、浅い眠りに落ちる。戦国生まれの染らですら、 今年の夏は耐え難いものがあると言うほどで、ここ数年で大分慣れたとは言え、生まれも育ちも現代人のには、とてもじゃないが堪らない。寝不足が積み重なって、いつの間にか目の下には、見事な隈が出来上がり、ああ、 婆娑羅という力に、風なるものがあるのなら、今すぐにでも欲しいと、真面目に思うのだった。

いつもの朝、が大助の袴の腰紐を縛っていると、ふと、後ろに立つ人影に気が付いた。顔を見ずとも、大助の表情を見れば、誰でも答えが分かる。
「ちちうえ!」
駆けだしそうになる身体を、「もう少しですから、動かないで下さい!」と引き留めて、きゅ、きゅ、と軽く力を入れて前で結ぶ。
「大助様、出来ましたよ」
「む!」
いつものように駆けだそうとして、大助の足がぴたりと止まった。
「お早うございます、幸村様」
がきちりと手を付いて、朝の挨拶をする姿を見て、隣に並んで正座した。
「おはようございます、ちちうえ!」
これが少し前ならば、そのまま飛びついて来ただろうに。これも成長のしるし。幸村はうむ、と一つ頷いて、
「よう出来たな」
ぽんと頭に手を置いてやれば、大助はへへへと照れ笑いを浮かべた。
「今日は一日、忍びで城下視察に出るのだがな、お主も連れて行ってやろうと思い、迎えに参った」
「じょうかにございますか?!」
「ああそうだ。手習いは今日は休みだ。師に話はつけてある。その代り休んだ分は明日、しかとやらねばならぬぞ?」
「はい!ちちうえ!」
ちよは衣装盆を片付けながら、親子二人の睦まじい会話を聞いていた。何とも平和な朝のひととき。外を見遣れば、雲一つない快晴。 みーんみーんと蝉たちが、今朝も早くから忙しなく鳴いている。動けば汗がうすらと滲む。今日も暑くなりそうだ。
「ちちうえ、もいっしょがよいです!」
もか?それは別に構わぬが・・・、」
自分の名前が出たので、が手を止めて顔を上げると、幸村と目があった。
「眠れておらぬのか?」
幸村の声にはっとして、は隠す様に、顔に手をやった。
「酷い隈だ。顔色も悪いではないか」
幸村が心配そうにを見る。流石にも気にして、普段は滅多に付けないおしろいを、薄く顔に塗ってはみたのだけれど。 あまり意味もなかったようだ。
「ただの寝不足です。大丈夫ですから」
お供しますと、そそくさと出かける支度を始めた。
、其方、供はやめよ。今日も外は暑くなろう、倒れられては大変だ」
ええー!と不満顔の大助は、女中が用意した草履を手に、行こうよ行こうよと、の袖を引っ張る。
「我儘を申すでない大助。少しは己の乳母を労わらぬか」
大助はちらりとを見て、確かに様子がおかしいのを感じたのか、けれども諦め切れずに、草履を持ったまま不貞腐れてしまった。
「幸村様、私なら大丈夫です。大助様、参りましょう」
ぱあっと笑顔に戻った大助は、早速縁側に走って行った。そんな我が子を見て、幸村は、仕方がないと、ため息を付いた。
「今日は特別だ」
後ろから近づいて、驚く我が子を、「暴れるでないぞ!」と、肩に担ぎ上げた。袴儀以来、けじめとして、こういった抱擁は控えていただけに、 皆にとっても、久しい光景であった。
「重くなったな」
幸村がそう言うと、大助は頭にしがみつき、 ここぞとばかりに甘えてみせる。袴儀を迎えたとは言え、やはりまだまだ実年齢は三歳の、幼子そのものだった。のことは我慢しろと言う幸村に、大助ももう、素直に従った。
「其方もこやつがおっては休めまい。丁度良い、今日一日寝ておれ。俺が許す。そのままでは、隈も酷くなるいっぽうだ」
行ってまいると、庭から出かける二人を、見えなくなるまで皆で見送って、さてと、各々の仕 事を再開し始めた。皆が散らばっていく中、は、足が動かない。蝉の鳴き声も、人が動く音も、一切の音が消えた。どこかで見た光景。何処かで聞いたような科白。 心臓が、どくりと大きく脈打った。頭の中で、何かがけたたましく、鳴っている。あれは、電話が鳴る音だ。受話器の向こうで、 警察と名乗る男が、しきりに何かを言っている。耳鳴りがして、よく聞こえない。なんて、

お亡くなりに、

様、お部屋でお休みになられるなら、床を敷きましょうか?如何致しま、・・・、様?」
は、駆けだした。染が止める間もなく、裸足のまま沓脱石も飛び越えて、庭に飛び出た。勢い余って裾で足が縺れて、 倒れ込んだ。追いかけなければ、追いかけなければ!焦って立ち上がろうとして、右足首に痛みが走る。 派手にすりむいて、だらだらと血が出ていた。それでも立ち上がり歩き出そうとして、慌てて追いかけてきた染に、腕を掴まれ止められた。
「何という無茶をなさるのです!怪我をされているではありませぬか!」
強張った染の顔を見て、我に返る。急に現実に引き戻されて、立ち竦んだ。
「・・・・・っ、」
は、両手で顔を覆った。怖かった。足元が、今にも崩れ落ちそうな、そんな感覚。 手当を受け、部屋に押し込まれた後も、は休めるはずもなかった。床の上で眠りもせず、ただ部屋で膝を抱えて、二人の帰りを待ち続けた。日暮れ前、二人が無事 館に戻った事を告げる声が、遠くで聞こえた。ただ、よかったと、は天を仰いで、祈る様に目を閉じた。


とたとたと、廊下を走る音が聞こえる。少し離れた大助の室から、元気な声がここまで聞こえてくる。ちよを探しているのか、ばた、ばた、と襖を開ける音がする。「様なら、ご自分のお部屋でお休みですよ」と、誰かの声がして、今度は、こちらへと足音が近づいてくる。もう少し、もう少し。
、ただいま!」
「お帰りなさいませ、大助様、」
ほら、何も、心配する事なんてなかった。横座りの体制を正そうとして、ぴりりと走った足の痛みに、は、呻いた。
「けがしたのか?!」
「不注意で転んでしまったのです。行儀が悪くて申し訳ありませんが、この通りですので、」
「きにするな、だいじにいたせ!」
その言い草が可愛らしくて、はふふと笑った。最近のこの口調は、どうも幸村のマネをしているらしい。
「すみませんが、数日間歩き回るのは禁止されてしまいましたので、」
しばらく御庭散策にお付き合いできなくなってしまいました。そう言えば、へそを曲げるかなと、思いきや。大助は、 手当された痛々しいの足を見て、まるで自分が怪我したかのように痛そうに、むーと顔を顰めると、ぽふとの膝に顔を埋めて、
「・・・がまんする」
と、小さく呟いた。嬉しくなって、朝、幸村がしていたように、優しく頭を撫でながら、が「城下は楽しかったですか?」と聞くと、顔を上げて、こくこくと頷いた。
「じょうかはすごかった!ちちうえと、いろいろみたのだ!ひとがいっぱいおった!だんごもたべたぞ!まんじゅうも! あと、あと、ほうとう!」
あれもこれもと、うまかった!と頬を紅潮させて、話が止まらない。食べ物の話が大半を占め、視察とは、飲食店のだったのかと思って しまうほどで、実際、の膝に身を乗り上げているお腹が、ぱんぱんに膨らんでいた。
「随分と食べたのですね。でも、そんなにお腹いっぱい食べては、夕餉が入りますか?」
「もんだいないぞ!あっ、そうだっ。、てっ、てだして!」
はやくはやくと急かされて、が掌を上に向けて両手を差し出すと、そこへ大助が握りしめていた物を、ぱっと落とした。それは、紅水晶の、小さな数珠だった。
「これは、」
「ちちうえとえらんだ、おまもりだぞっ。これでもうけがはせぬ!ちちうえが、きょうでみたさくらのいろだから、 これがよいともうされた!」
「京で見た・・・」
心が震えた。気に入った?と、大助の、幸村によく似た茶色の瞳が、喜ぶ顔を期待して、じっとの反応を待っている。
「・・・とても素敵です。ほんとうに、」
「ちちうえがえらばれたのだから、まちがいない!」
その後も、ちちうえが、ちちうえが、と続く話に、男の子はやっぱりお父さんなんだなぁと、思う。
「大助様は、御父上様のことが、本当にお好きなのですね」
そういうと、大助はきょとんとを見た。
はちがうのか?ちちうえのこと、すきではないのか?」
今度は、のほうが、ぽかんとしてしまった。が幸村を嫌う理由などあるはずもない。子どもの、他愛もない言葉だ。 そうだと一言、頷いてやればよいのに。なのに、何故か、言葉にすることができずにいた。なかなか答えをくれないちよに、 大助の表情が曇りだす。そうじゃない、そうないのと、絞り出す様に、口にした。
「・・・・大好き、ですよ、」
微笑もうとして、失敗した。は数珠を、ぎゅっと握りしめた。ああ。そうか。そういうことか。他人事のように納得がいって。 今まで気付かなかったのが不思議なくらい、それは、すとんと胸に収まった。そして、心の奥底の、望みを、知る。くしゃりと顔が歪む。 こんな顔は見せたくなくて、大助を抱き寄せた。どうしたのだ?と肩越しに聞こえる、不安げな声。 小さな頭に顔を寄せれば、少し細くて猫っ毛の、母親譲りだと幸村が言った髪が、の頬を擽った。
「あし、やっぱりいたいの・・・?」
大事なものは、いつの間にか、一つだけじゃなくなって。
「・・・違います。大丈夫ですよ。大丈夫・・・」
あんまり大助様が幸村様の事ばかり言うから、やきもちを焼いただけです。そう言えば、「もだいすきだぞ!」、と、ほっとしたように頭が揺れた。




それから数日、足は治れども、の心は、晴れることなく。その夜も、うんざりとするような暑さだった。深夜、喉が渇いて目を覚ましたは、冷たい水を求め、井戸に来た。前に翳していた行灯を、そおっと足元に置く。誰もいない井戸場はなんだか不気味で、 少しびくびくしながら井戸の蓋をずらし、真っ暗な井戸底に釣瓶を投げ入れた。 縄を引いて汲み上げた水を、その辺に置いてあった桶に流し入れて、手酌で数度掬っては、ごくりごくりと喉を潤した。ついでに、 ぱしゃぱしゃと顔を洗っていると、飛んだ水飛沫が運悪く行灯に掛かり、灯が消え辺りは真っ暗。ほんと、 なにやってんだか・・・と、は苦笑しながら、やけっぱちに羽織ってきた小袖の袖で顔をぐいぐいと拭って、井戸の縁に腰を降ろした。 いつもなら満天の星空を見せる空も、今夜は薄い雲の帳がかかり、新月の細い月も微かな光を発するのみ。野外なのに、空気がどんよりと しいて、気分が悪い。今日の事を思い出し、やるせなくなって、は大きなため息を付いた。初めて、帰りたい、そう思った。 帰るところなどないのに。心に浮かんだのは、ここでの豊かな日々だった。孤独ではなかった。幼い大助を挟んで昔話を語る、 主と共に過ごす優しい時間が、何より好きだった。八つ時が恋しいと思ったのは、どうして・・・?月が、少しずつ満ちて行くように、の心にも、少しずつ、少しずつ、暖かなものが流れ込んで、自分でも気づかぬうちに、いつの間にか。

ざり、ざり、と砂を踏みしめる足音が聞こえて視線を上げると、白小袖姿の男が立っていた。
、か?」
「・・・幸村様、」

永い夢が、終わる。


2012.11.29