ドリーム小説
背負うもの
『幸村様!お方様が!!』
『御目を開けてご覧くださいまし、立派な若君にございますよ!』
『お願いに御座いますお方様、しっかりなさって下さいまし!!』
『お方様!お方様!!、利世さま!ああ、何故このような事に――!』
最後に聞こえたのは、誰の声であったか。
「―――――っ!」
急な覚醒に驚いて、弾かれたようにと身を起こす。夢であったかと額に手をやれば、大量に掻いた汗が冷たくなっていた。
室内はまだ薄暗い。起床するには少々早かろうが、もう一眠りというのも出来そうにない。未だ収まらぬ鼓動を落ち着かせ
る為に、幸村はふうと大きくひとつ、息を吐いた。
「誰かおるか?」
障子戸の向こうから、はい、と声がした。
「今朝は朝餉の前に鍛錬をいたす故、稽古着でよい。支度を頼む」
かしこまりましたと、去ってゆく足音を耳にしてから、幸村はゆるりと立ち上がった。障子を開け、
もうすぐ日の出なのか、山際辺りが明るくなってゆくのを見ながら、情けない顔をしているであろう顔を、パンパン、と両掌で二度頬を叩いた。
よし!と声を出すと、手水鉢を手にやってきた別の女中が、何事かと驚いた顔でこちらを見ていた。
秋の紅葉シーズンが到来した。の最も好きな季節である。山に囲まれた甲府盆地は、どの方角を見ても木々が色付き、美しい。湿気のない秋風が実に
気持ち良く、夏場の暑さに呻いていたのが嘘の様に快適になった。
そんなある日の事。いつもは休憩もかねて八ツ時前後にやってくる事の多い幸村が、まだ正午も過ぎたばかり
というのに早々に姿を見せた。その出で立ちがいつもとは違い、珍しく二本差しに脚絆もついて外出着のようであったので、が「どこかへ行かれるのですか?」と尋ねると、ああと頷き手を伸ばしてきたので、いつもの様に大助を
渡す。
「大助を連れて行きたいところがある。其方も付いて来てくれぬか?」
「あの、どちらへ?」
「近場だ。馬で行くぞ。大助がおる故、揺れぬようゆるりと参るつもりだが、そうだな、それでも半時、いや、
四半時もあれば着くであろう」
「馬、ですか?あの、私は馬には乗れませんが・・」
が慌ててそう言うと、幸村がははは、と可笑しそうに笑った。
「左様な事はわかっておる!心配いたすな、俺が乗せてゆく。流石に大助を抱いたままでは手綱は握れぬ。
其方はあの便利な袋で大助を抱えて共に乗ればよい。山の上はここより寒い。風邪を引かぬよう、支度するのだぞ」
よいな?と満面の笑みで念を押されれば、ははいと返事するしかない。なんとなく気恥ずかしくなって、ぱっと目を逸らし、山、山ですね、
と呟きながら、
「先に大助様のお支度を。お持ちしますのでお待ち下さい」
と、逃げるようにそそくさと隣室へ下がっていった。
暫しして、が呼んだのか、染がやってきた。
「様に若君を連れてお出掛けになる由、お聞き致しました。何か用意するものはございますか?」
「おお、そうだ、忘れるところであった。を馬に乗せる故、袴を用意してやってくれぬか。茜色の裁付はどうした?あれは、――・・・」
何かを思い出し言い淀む。記憶の中のそれは。ああそうだった、あれは――。
「お方様のあの・・茜色の裁付に御座いますか・・・?」
「・・・ああ」
「よろしいのですか?」
「構わぬ、それでよい。仕舞い込んでも仕方なかろう。支度を手伝ってやってくれ」
「かしこまりました。すぐにお持ちいたします」
染が行ったのを見て、幸村は今度は天井を見た。
「佐助、そこにおるか?」
いますよーと声がして、天井からくるりと飛び降りた佐助が、「お呼びでしょうか?」と幸村の前で仰々しく膝をついた。
「厩へ行って、馬番に大手前まで一頭用意せよと申し伝えよ。二人乗って参る故、鐙は二つだ」
「了解。で、どこ行くの?」
「要害山城だ。あそこは城下が一望できる。大助に見せてやりたくてな。紅葉もそろそろ見頃であろう」
「まだお小さいから、そういうの見ても、わからないんじゃないの?」
「そうやもしれぬが、が申しておったぞ。覚えておらずとも、幼いうちに色々な体験をさせることは、感性を養うのによい
そうだ」
「へえ。そうなの?」
「それに、は館に参ってから大助につきっきりで、一度も外に出ておるまい?気晴らしにもなろう。もうじき
冬だ。その前にと思ったのだ」
「案外そっちが目的だったりして・・・」
「何か申したか?」
「いーえ、何も!じゃあ、ひとっ走り行ってきますよ。ついでに城にも先触れ出しとくから」
「ああ、頼んだぞ」
幸村の腕に抱かれる大助が、佐助の方を見て掌を握ったり開いている仕草が、何の欲目か、まるで手を振っているように見え
て、それだけで感動の佐助は「じゃあまたね、若様」と、満面の笑顔で庭に消えていった。
行李の中から、がお手製のポンチョ擬きの外套を手に戻ってくると、大助は少し眠いのか大人しくしているので、これ幸いと
ささっと手際よく着せてしまえた。幸村はその作りがどうも気になるらしい。裾をつまんで捲ったりしている。
「これは如何したのだ?何やら佐助の外套に似ておるな」
「私がお作りしました」
「そうか、なかなか上手いこと出来ておる」
はそういうつもりはなかったのだけれど、確かに言われてみれば似ている気もする。最後に大助の足に、
外套の共布で作った小さな布靴を履かせた。未だ歩くわけではないので、これで十分なのだ。靴にも興味を持ったのか、
幸村が変わった足袋だなと、物珍しげにそれを眺めている。
「終わりました。では、私も支度をしてまいります」
「染に袴を用意するよう申し付けておる。着付けて貰え。俺はこのまま大助と先に、大手門へ参る。其方も支度
が出来たら参れ」
はい、と返事をすると、染が呼ぶ声が聞こえて、
「では後程」
頭を下げて、そこで一旦別れた。
幸村が門衛と言葉を交わしていると、見覚えのある茜色姿が向こうからやってくるのが見えて、こっちだと大きく手を振る
と、気付いたが駆け寄ってきた。
「お待たせいたしました」
が胸に下げたスリングを広げて、手慣れた幸村が上から大助をすぽっと入れる。がおさまりのいい位置に大助をずらしていると、その出で立ちを幸村が見て、噴き出した。
「前々から思うておったが、なんぞその姿を見ておると、腹に子を提げた猿の親子を思い出す」
怒ったか?と訊かれ、は内心、猿とはいえ親子と例えられて嬉しかったので、照れて何も言えなかったのを、
拗ねたのと勘違いしたのか、すまぬ機嫌を直せと幸村が言うので、怒ってるわけじゃありませんと慌てて手を振ると、
二人でまた笑った。
さて、いよいよ出発するぞと、馬の乗り方を一通り説明されて、
「俺が先に乗るからよく見ていろ」
と、軽やかに馬に跨る幸村の、様になる事といったら。が感嘆の声を上げると、
「前だと何ぞあった時に刀を抜けぬ。其方は後ろに乗れ」
差し出された幸村の手をとり、続いても鐙に足を掛け、えい!と勢いよく跨った。すると、馬が一歩、二歩と動いて、
わっと驚き身体がぐらりと後ろに仰け反り、思わず前にいる幸村の肩衣の両裾を掴み、思いっきり引っ張ってしまった。
慌てて申し訳ありません!と癖で頭を下げようとすると、今度はごちんと、幸村の背に頭をぶつけて、痛っ!と、おでこ
に手をやり顔を上げると、幸村が大丈夫か?と振り返り、美丈夫な顔とばちりと目が合ってしまった。大丈夫です・・・
・と尻すぼみになりながら、落ち着こうと俯いて大助を見た。大助が間にいるとはいえ、いかんせん距離が近すぎて心臓に悪い。
「大丈夫だから落ち着け。よいか、先ずは背筋を伸ばし、足の腿を馬の体に沿うようにせよ。それから、ここをしっかり掴んおれ」
腰のあたりをぱんぱんと叩いきながら此処の辺りだと言われて、失礼しますと遠慮がちにちょろっと掴むと、ちゃんと持てと後ろ手に手首を掴まれて、
幸村の腰をがしっと掴み直させられた。
「どうだ、多岐に用意させたその袴は。動き易かろう」
「あ、はい!とっても快適です。いつもこれで過ごしたいくらいです」
「そうか。気に入ったのなら下げ渡そう」
ありがとうございます!と礼を言うと、幸村が肩越しに振り返って頷いた。さて、いざ参ろう!と幸村が手綱を取ると、馬が歩き出した。いってらっしゃいませ!と門番の見送りを受け、ぱかぱかと常歩でのんびり
馬を進ませながら、門を出た。にとっては八ヶ月ぶりの城の外であった。館周りは大きな武家屋敷が並び、あそこは山本殿の、あそこは
誰それの、と説明を受けながら一路北へ向かう。
「今から山道に入る。手を離すでないぞ」
「あの、山に行くとしか行先を聞いていませんでしたが、」
館の位置と方向から、なんとなくちよにも向かう先が分かったのだけれど、一応聞いてみる。
「要害山城だ。は要害山を知っておるか?」
やはり。要害といえば、小学生の頃に一度だけ、両親と日帰り温泉に入りに来た記憶がある。自宅から車で20分程度の距離
なのに、近くに住んでいると、意外と行かないものである。
「確か、信玄公の隠し湯がある所ですよね?」
「その通りだ、左様な事よく知っておるな!」
「あ、いえ、館で誰かが話しているのを聞いただけで・・・」
そうかと呟いて、幸村が折角だから次は湯に浸かりに参るかなどと言うので、本気なのかわからないは、はぁ、と気のない返事を返すにとどまる。このような事を一介の乳母風情に気軽に言ってくる幸村は、佐助が言うには、
「旦那が特別なの」だそうだが、ただでさえ時代のギャップに悩むは、距離感がつかめず時々どう振る舞えばいいのかわからなくなってしまう。
山を登っていく途中、散った紅葉で地面に所々綺麗な落ち葉の赤い絨毯が出来ていた。綺麗ですねぇとなるべく大助に声を掛けて
やりながら、無事要害山城の入り口に着くと、領主訪問の知らせを受けていた門衛達に、満面の笑みで迎えられた。門が開けられ
馬に乗ったまま中に入りいくつかの門を潜って、「ここが一番見晴らしがよいのだ」と幸村が言った曲輪で馬を下りた。
そこからは、甲府盆地がとてもよく見えた。久しぶりによくよく見た富士山も、いつの間にか雪化粧されていて、
いくつかの季節が過ぎたのを感じる。躑躅ヶ崎館を手前に見下ろし、周りには先程通り過ぎて来た武家屋敷が多く立ち並ぶ。
館の南の通りには四年間通った大学があったことを思い出し、懐かしくなった。どこまでも続く城下町は、京都の
街並みとはいかないまでも整備され美しく、甲斐が本当に栄えていた国なのだと一目でわかる。幸村はから大助を受けとると、いつもの様に片腕に抱き、あちらを見るのだと、その目を城下へ向けさせた。
「大助!これが其方の父が、上様より受け継ぎし、甲斐の地であるぞ!」
それは、それは誇らしく。いつか其方が継ぐ国だ。命にかけて守らねばならぬ。幸村はそう語る。一国の主に相応しき力
強さで。には、国を背負う重さなど分からないし、想像もつかない。自分の知る幸村は、大助の前での父としての姿が殆どで、
こういう顔をみると改めて、思う。この人は、本当は自分とは遥か彼方の遠い、雲の上の存在なのだと。こうして、隣に並んで
立っているなんて、本来はありえない事なのかもしれない。小さな大助も、今は何もわからないかもしれないけれど、それでも幸
村は、何度でも言うのだろう。いつか立派に成長し、この地を継ぐその日まで。二人の姿を見ながら、の胸も熱くなった。
けれど、次の瞬間、は急に怖くなった。自分はその姿を見ることができるのだろうか。ここへ来た時の様に、急にこの世界から消えて、
もう二度と、二人を見ることが出来なくなってしまうのではないか。乳母という仕事にのめり込んでいくうちに、
いつの間にか忘れていた、可能性。は、大助が成長して乳母としての自分がいらなくなったとしても、どんな仕事でもいいから館に
置いてもらいたい、そう頼み込むつもりでいた。我が子の様に愛おしむ大助を、陰ながらでも見守れれば、きっとこの世でも
生きていける、そう思っていた。一度起きたことは、また起きるかもしれない。身に染みてそれを知っている、それが死という別れではない
としても、こんなに怖い。背負う過去が、どこまでもを追い詰める。何かを諦めてしまっていた心に、いつのまにかしがみ付きたいものが生まれてい
た。拳をぎゅっと握りしめ、俯いた。昔の様に感情を閉ざす。これ以上、怖くて何も考えたくなかった。ふと頭に痛みを感じて、横を見ると、大助が身を乗り出しての髪を引っ張っている。大助様?痛いです、とが唸ると、幸村が気付いて、
「これ大助、髪を放してやれ。が困っておるではないか」
悪戯をする小さな手を上から引っ張ると、の髪を括っていた紐がするりと取れてしまった。山際を吹き上げる風に、髪が暴れだす。少し癖のある
黒髪がふわりと舞って、は慌てて髪を抑える。幸村は何気なしに片手を伸ばし、乱れた髪をそっと耳にかけてやった。一瞬節くれ
た指先がふにゃりとやわらかな頬に触れ手が止まる。
「あ、の・・もう大丈夫です。ありがとうございました」
そこで初めて己の行動に気が付いたのか、幸村が慌てて手を引っ込めた。
「やっ、いや、その、すまぬ」
「?」
一人百面相を始めた幸村が面白かったのか、大助が今度は幸村の顔をぺしぺしと叩き出した。痛いぞこれ止めぬか!
とじゃれ合う父子を他所に、しゃがんで紐を拾ったは、肩越しに器用に髪を縛り立ち上がった。纏められた髪を見て、幸村が口を開いた。
「髪が、伸びたな」
「言われてみれば・・・。館に来た頃は肩にかかるほどしかありませんでしたから。幸村様の後ろの髪も、随分伸び
られましたね」
「以前はもっと長かったのだがな。一度切った故」
長かった後ろ髪は、寂しかろうと妻を葬る際に切って持たせた。幸村はそのことは口にしなかった。ほんの少し表情の固く
なった幸村に、何か理由があったのだろうと感じたは、ただ、そうだったんですかとだけ言って、相変わらず父を相手に立ち回る大助をこちらに、と引き離し抱きかかえた。
「おおそうだ、にはまだ話してなかったな。先日、上様より文を頂いてな。大助を連れて京に参るよう仰せつかった」
「京に行かれるのですか?」
「ああ。だが、直に冬だ。来春雪解けを待っての出立になる。春になれば大助も二歳だ。旅に連れて行っても問
題なかろうと思うのだが」
どうか、と訊かれて二歳?とは思ったものの、大助の顔を見て、そうか、数え年かと思い至って、納得する。ただ、幼子を長旅に
出すというのは色々と心配に思うのだけれど。
「京までとなると、お帰りになるまでふた月程かかるのでしょうか?しばらく寂しくなります」
それに心配です、と言うと、
「そこまではかからぬであろうが。それに寂しいも何も、其方も共に参るのだぞ」
「は?私もですか?」
「当たり前ではないか、其方がいなかったら誰が大助を見るのだ」
「私のようなものが、ご一緒してもよろしいのですか?」
「其方は大助の乳母ではないか。何を遠慮することがある」
それがさも当然であるように幸村は言う。
「なんだ、京へ行くのが嫌なのか?」
「いえ、そうじゃありません。そうじゃないんです」
ただ、これ以上深くかかわっていくのが、怖くなったんです。心の傷は音にはならず、の声が幸村に伝わることはない。
「そろそろ戻るか」
「・・・はい」
毎年必ず連れて来よう。そういった幸村の言葉の中に、の姿も入っていたのだろうか。大助をぎゅっと抱きしめて、小さな肩越しにもう一度、眼下の景色を静
かに眺めた。
2012.09.10